モンスターペアレント。親になる資格。

 最近、学校に「うちの子に掃除をさせるな」とか「けんかした相手を転校させろ」と無理難題を訴える保護者の存在が問題になっている。

 実は馬鹿な親の存在の可能性については、小学生の頃から考えていた。自分は3人兄弟の一番下であったので、常に年少者の立場から物事を見てきた。そのときに感じたのが、人間、年を取っているだけで偉いのか?という問題である。どんな出鱈目な人間でも20歳になれば、選挙権が与えられ、犬猫に匹敵するような人間でも16〜18歳になれば、結婚して子供を作り、親になることが出来る。何かおかしくないかと。こういうことを小学生のときから考えていた。

 その解決策として極論を言えば、全て試験を行う事等も考えた。試験といってもペーパーテストのイメージではない。その人物の考え方の社会性や正常度を判定する試験である。今考えれば、こんなことを国家が実施したら大変なことになるわけで許されることではないが、年だけ取れば、どんな人間でも一定の権利が得られる現在の社会制度もおかしい

 連日、新聞をにぎわす自分の子供殺しや今からの季節多発する車の中への子供放置による熱射病死。運転中に良く見かけるのが、運転席に赤ちゃんを抱っこしたり、幼児をチャイルドシートではなくて、運転席と助手席の間に立たせたりしている親。これなんか悪意はなくてもその行為の危険性を認識していない、即ち、親としての保護責任放棄なのである。基本的に物事を知らないというのは罪なのである(この考え方については後日詳しく述べる)。

 話がそれたが、この問題を解決するには日本の社会の生い立ちにまで遡る必要があるのかもしれない。日本は農業国家であったので、基本的に集団で決まった季節に一定の共同作業をする必要があった。個人の自由よりも集団の存続を優先する社会であった。それが、太平洋戦争に敗れて、西欧風の民主主義を押し付けられた。集団よりも個人最優先になった。個人主義である。個人の権利は全てに優先するようになった。しかし、これは本当に正しい考え方なのか?また、個人主義を実践するにしても前提条件があるはずではないのか?即ち、その個々人の姿勢についての。個々人の姿勢も問わずに全て平等に権利を付与するのはおかしいだろう。

 地球温暖化の進行で人類は大きな危機に直面している。現在はその地球温暖化をこれからも加速度的に進行させるのか、抑制していくのかの瀬戸際に当たる。このような時代の社会人は、環境のことを考え、実践しうる人間でなければならない。なぜなら、環境問題は行政のみで対応できる問題ではなく、3R(Reduce,Reuse,Recycle)といわれる活動一つとっても、一人ひとりの市民の実践に頼るしかないからである。

 環境問題の克服はある意味、市民の自覚をどれだけ促すかにかかっているといっても過言でないかもしれない。同様にモンスターペアレントの問題も個人の社会性の自覚の問題で、どれだけ個人の自覚を促すかにかかっている。環境問題もモンスターペアレントも最終的には国民の教育の問題に行き着くと思う。

 要するに大きな意味での教育が、今後の安定した社会を作るうえで非常に重要な位置を占めているということになる。そのような検討はなされているのか。教育基本法を改正し、国民よ、ちっとは国のことを考えろと安倍は言いたいのだろうが、一方で日本経団連の「希望の国、日本」等の経済界の言いなりで本当の良い社会が来るとは思えない。要するにグローバル化に対抗するための『競い合う社会』の実現なのである。どこまで競い合えばよいのか。際限のない競争。若者もそのような社会を見て、将来に希望が見出せないのである。国際的なアンケートで、日本の学生が将来に対して最も夢も希望を無くしているのである。

 衣食足りて礼節を知る。日本は表面上、衣食足りてはいるが、若者も年寄りも将来に希望の持てない社会になっている。そういう意味で礼節が忘れられているのではないか。まず、将来に希望の持てる社会を実現する必要がある。それは安倍が進める対米従属、グローバル化、市場原理主義礼賛の社会とは、真反対の方向に解答があるような気がするのだが。

(2007年7月15日記)

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